第二編 自然と環境

 第三章 交通と通信


  第一節 道 路


 本町が交通上の要路となつたのは、おそらく武田時代以後のことであろう。甲斐国と関係の國々との交通が、重川の谷から大菩薩峠をこえて青梅に至る萩原口と、笛吹川の谷をさか上つて雁坂峠をこえて秩父に至る雁坂口の二つであつた。この二道の開通は笛吹川の横断のために、地藏渡場(根津矯の北約五十米)を発展させ、徒歩時代にはこゝが國中方面と萩原方面の要路であり、更には関東地方と國中とを緒ぶ重要地点であつた。この地蔵渡は水難よけの地蔵尊を祀つたために、その名が生れたと言われ、現在あるものは享保元年正月吉日建立とあるので二百二十余年前のものである。当時はこゝを中心として道路が開け、この道は北に進んで市神々社から小原西に通じ八日市場、下井尻、上塩後を経て萩原方面へ、更に大菩薩をこえて青梅に通じたのであろう。次に明治以後の道路としては次のものを挙げることができる。

  一、青梅街道
 
 明治維新により地方行政は新しい方面に向つて幾多の改善が加えられた。その一つとして地方道路の改修整備が行われた。中でも藤村縣令によつて縣道青梅街道、里道青梅支道の開通を見るに至つた。青梅街道は大菩薩越とも青梅道ともいい、甲府市酒折町で甲州街道から分岐し岡部・春日居・山梨村を通り小原・八日市場・下井尻・塩山・大藤・神金を、通過し丹波山村を経て武洲青梅に至るものである。之は明治九年二月差出塔の山の切下げ工事竣工と、明治十二年九月亀甲橋の落成によつて前述の地蔵渡より、交通路が北に移行したものである。

  二、日川街道

 中央線の開通を前にして、明治三十三年日川村甲州街道分岐点より日下都町青梅街道分岐点まで、○・四キロメートルに亘る街道を縣道に編入された。その後明治三十六年六月十一日中央線が開通されて甲州街道、青梅街道の機能は弱まり、日川村や日下部町の発展は停滞の状態となつたが、バスやトラックの発達によつて工場、会社の誘致が成功して、本町は政治、文化、産業上のセンターとなることゝなつた。  その後道路については、大正八年四月道路法が制定され、大正九年四月の東山梨郡役所の告示を見ると本町関係のものは左の通りである。

 路線名     起点  終点     重要なる経過地
日下部松里線  日下部町 松里村
日下部玉宮線  日下部町 玉宮村    塩山町
日下部神金線  日下部町 神金村    塩山町、大藤村
日下部西保線  日下部町 西保村    八幡村
日下部春日居線 日下部町 春日居村   山梨村
日下部菱山線  日下部町 菱山村    後屋敷村、東雲村、勝沼町
日下部一宮線  日下部駅 一宮村
日下部日川線  日下部町 日川村上栗原 加納岩町、後屋敷村

  第二節 交通運輸

 先づ挙げねばならないのは馬の利用であろう。江戸時代は関東或は峡東の荷物は、馬の背にゆられながら地蔵渡を通過して甲府へ行つたのである。次は馬車の利用であるが、鉄道開通前には差出の磯に立場があり、こゝに八幡・中牧・西保・本町・後屋敷・加納岩等より集つた客は、六人乗りの馬車にゆられて甲府へ行つたものである。これは円太郎馬車といゝ、ポーポーと牧歌的な笛をふいて町から村へ村から町へと駈けて行つたのである。一里十銭、甲府までは三十銭であつたが、鉄道の開通と共にのどかな円太郎馬車の笛を聞くことも出来なくなつた。鉄道開通後は駅につく荷物を運搬するために荷馬車が発達し、日下部町は諏訪町方面から来る荷物と、甲府から運ぶ荷物の集散地となつた。然し昭和時代に入つて貨物自動車が出現すると、これに領域を奪われたが尚現在は僅少の荷馬車を用いて、河原の石や砂利運搬等に利用しているに過ぎない。人力車は明治十八年前後に本町に入り、大正のはじめには最も活用され、組合を組織して一里十五銭で走つたのである。これも自動車の圧迫を受けて、昭和五六年頃にはその姿を消した。
 乗合自動車は大正七年中甲府市石原彦太郎等の発企で甲府自動車運輸会社が創立され、本社を甲府市八日町におき甲府日下部聞を定期運轉した。この時の自動車はハイヤー型の小型であつた。その後甲府塩山間甲府諏訪間東西廻りが生れ、大正十四年頃日下都に入つて来たのであるが、現在は西保線、水口線の開通によつて、八幡の奥にも西保の山峡にも、エンジンの音をひびかせている。タクシーは終戦前二、三あつたが、終戦後は日下部駅前に統合されてしまつた。貨物自動車は昭和元年に日下部駅前丸通運送店に入つたのがはじめで、その後雨宮・金子・坂本等が貨物自動軍の輸送を開始し、木町を通過するトラックの数は日毎に増加し、貨物運搬の王座を占めるに至つた。鉄道は中央線が明治三十六年六月に開通し、自動車の発達共に交通運輸の中核となつた。

 本町諸車台数(昭和二十四年)
乗用車 一四  馬車    六
貨物車 一一  荷車   二六
其他   七  自転車 五七〇
        リヤカー二九五

  交通機関発達概要

時 代 主要交通機関   備考
明治以前
 
乗用
貨物
駕籠、馬
駕籠は明治初年まで使用
 
明治時代

 
乗用
貨物
 
馬、人力車、馬車、自転車、汽車
馬、土車、荷車、荷馬車
 
人力車 明治一八年頃
自転車 明治三十三年
汽車  明治三十六年
大正時代
 
乗用
貨物
人力車、汽車、自転車、自動車
荷車、荷馬車
乗用自動車 大正十三年
乗合自動車 大正七年
昭和時代

 
乗用
貨物
 
自動車、自転車、汽車、オートバイ、ラビット
荷馬車、貨物自動車、リヤカー、サイドカー、
オート三輪車

貨物自動車 昭和元年
 

 中央線日下部・塩山両駅間停車場設置運動

日下部駅と塩山駅との中間に、新停車場設置を望む声は、本町をはじめ隣接村の切なる願いであつたが、この運動は古く昭和七年に陳横書を提出したがまだ設置の機運に恵まれず、終戦後日下部を中心とする都市計画の波にのつて再び設置運動が 活発になつた。從つて今度は近い日に、新停車場の誕生を見る事は明らかである。こゝに新停車場設置陳情に関する書類の写しを載せておく。

一中央線塩山日下部両駅間新停車場設置に関する陳情
(一)位置 中央線塩山日下部両駅中間に於て適宜御選定
(二)用地寄附 新設停車場のために専ら利便を受くる最寄地方民之を負担前記條項により新に停車場設置有之度左記理由書相添え此段及陳情候

  理由書

一、新停車場のため專ら利便を享くべき地域は山梨縣東山梨郡日下部町 後屋敷村 八幡村 岩手村 西保村 束雲村 奥野田村の諸村及塩山町松里村の一部に亘るべく此等諸町村は遍く此の地方農村と共に概観するも戸口稠密にして経済的資力叉克く開発せられたるものと謂うべし
二、所謂峡東の区画は西甲府平原に連るも又白ら一小天地をなすものにして前項の地域は其の中央平坦部を占め青梅街道を幹線とし之と連絡分岐する幾多の道路四通八達の中心をなすが故に新停車場開設せられんか地方民の交通物資の集散皆之に依ること多大にして叉容易なりとす
三、近時自動車俄にその数を増し如上の道路を往復するがために当然鉄道によるべき旅客並に物資も現在の塩山及日下部(事実所在は加納岩にあり)両駅が近からざる故この両駅に乗降せず自動車によりて遠距離にまで交通せんとする傾向あり従つて鉄道の恩恵漸く薄からんとす
四、陳情に係る停車場附近人の遊覧を誘うべき名勝をあぐれば後屋敷村に国宝の清白寺観音堂あり八幡村に国宝窪八幡紳社の建造物あり松里村に武田信玄菩提所恵林寺あり日下部八幡両町村に跨りて差出の磯あり、東雲村に日蓮宗の巨刹立正寺ある等其の他尚少なからず。

  第三節 通 信

 郵便の歴史をたどつて見ると、我が國に新式郵便が実施されたのが明治四年三月であり、本縣にはじめて郵便役所が置かれたのは明治五年七月一日であつたあ。本町は十八年八月一日に小原西一、三四一番地に郵便所が置かれてはじめて業務を開始したのであつた。その後十月に貯金事務を、二十一年五月為替事務を二十六年十一月電信事務を開始し、三十七年六月小原西九番地に移転し、次第に規模を拡張して今日に至つたのである。
 電話は明治三十九年十月本縣にはじめて開設され本町には大正八年七月開設され、当時加入数は二十八口、・昭和元年六十□、昭和十一年七十九口、現在は九十口となつた。その中本町の口数を部落別に見ると次のようになる。

  小原   七十二口
  八日市場  十六口
  七日市場   〇
  下丼尻    二口

 こゝにも農業本位の部落と商業中心地域との利用状況がはつきり現れている。

 日下部郵便局

 日下部郵便局は明治十八年一月一日創設された。創立の当初は局員五名で小原西、元メソジスト教会の隣り一三四一番地にあつた。ついで警察署西隣り七六二ノ二番地に移され、本町の発展と共にその規模に拡張されたが、ついに局舎の狭隘を告げるに至り、且つ明治三十六年日下部駅の開設と共にその仕事の性格上駅の近くを選び翌三十七年六月小原西九番地に移轉した。その後昭和三年十二月、旧建物を改造し、面目を新たにした局舎が出來上り町民に親しまれてきたが、本町の発展と共に益々その機構が重要性を帯びるに至つた爲、昭和二十五年十月一日、ついに韮崎局と共に普通局(昔の一二等局)に昇格するに至つた。又指定局として指定事務をも取扱うようになつた。ついで翌十一月には、電報電話局が分離独立し、九番地の建物は電報電話局に移され、尚郵便局は新たに小原西一八〇ノ二番地に総坪数一九五坪、予算四二八万円で局舎の建談に着手、昭和二十六年八月竣工した。

 郵便物取扱開始並びにその沿革
一、貯  金  明治十八年一月一日  創設
二、郵  便   同九月一日     開始
三、爲  替   同二十一年五月一日 同
四、郵便凾場   同六月二十五日   同
 小沢新左衛門(八日市場役場前)に初めてポスト設置さる。
五、小  包  明治二十六年五月一日 開始
六、電  信   同十一月十六日   同
 この期より名称が日下部郵便電信局となる。
七、局舎新築   同三十七年六月四日 落成
 小原西九番地に移り名称日下部郵便局に変る。
八、電  話  明治四十三年三月六日 開始
九、電話交換  大正七年八月二十六日 開始。
 この時より日下部に電話開通。
一〇、局舎改造 昭和三年十二月二日
 現電報電話局成る。
一一、普通局昇格 昭和二十五年十月一日
一二、指定局   同         管内十五局指定事務扱。
一三、電報電話局分離 同十一月十五日
一四、分課設置   昭和二十六年五月一日
一五、局舎新築    同八月二十五日  新築移轉
一六、集配の範囲の変遷
市内一区(日下部小原東、西の大部、七日市場)市内二区(日下部町小原西の一部、加納岩町上神内川、同下神内川の大部)市外一区(山梨村、八幡の一部)市外二区(後屋敷村、日下部町 下井尻、加納岩町、上石森、同大野、下神内川の一部)市外三区(岩手村、八幡村市川、同南北)市外四区(八幡村「前記を除く」)

 〔新しい機構〕
 新装成つた日下部郵便局は、現在定員四十三名、内部組織は次のようである。
庶務・会計課=人事・会計・給與・切手配給(以上東山梨郡各局の分も含む)厚生・文書・物品・局金
郵便課=國内及び、外國郵便物の引受配達、切手類の売捌。
貯金保険課=郵便貯金、振替貯金國内外国郵便為替・恩給年金の支拂・簡易保険・郵便年金事務・國庫金受入。

  歴代局長
根津寅吉(明治二一、一〇、四−明治四四、一二、二八)
中沢昌雄(明治四四、二六、二八−大正八、九、二二)三等局
古屋善晴(大正八、九、二−昭和二六、六、三〇)特定局・普通局
長田利学(昭和二六、七、一−)普通局

 日下部電報電話局

 昭和二十五年十一月十五日、日下部郵便局から分離独立した電報電話局は、電氣逓信省の所管に属し旧局舎をそのまゝ使用し、電報の受付、配達、通話の受付、電話交換、料金の収納事務等を行ない、いよいよ繁雑さを増した、電報電話の業務を担当している從業人員は二十二名である。
 今、昭和二十五年度集計による電報電話の状況を見ると左の如くである。
一、電話交換機数
 
市内
市外
 三台
 三台
一、電話加入者数
 
有料
無料
 三一
  五
一、年間通話数
 
市内
市外
 一、五八四、〇〇〇
   二七〇、七二〇
一、年間電報通数
 
発信
受信
 六〇〇〇件
 九〇三四件


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